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2台のクーペと”四方山果無(よもやまはてなし)”World

書評「月山」(森敦)

 今までで一番感銘を受けた小説であるのに、未だに感想を書いていなかった。実は感想すら書けないくらいに感動していたのかも知れない・・・・と言ったらちょっとおおげさかも。

月山

 冒頭にひとつの言葉がある。“未だ生を知らず、焉ぞ死を知らん”これは論語から引用された言葉であり、生きることすらよく分かっていないのに、どうして死のことがわかるのか・・・という意味である。この小説の中にはそこここに“死”というものに対する思いが著されている。“死こそはわたしたちにとってまさにあるべき唯一のものでありながら、そのいかなるものかを覗わせようとせず、ひとたび覗えば語ることを許さぬ、死のたくらみめいたものを感じさせる・・・”湯殿山で見聞きしたものは決して俗世間では語っては成らない。“という戒めがかつてはあったようである、まさにここ注連寺を含む湯殿信仰は死というものが濃厚に感じられるものであったと思われる。
小説「月山」は月山と湯殿山との関わりについても書かれているが、それだけではなく、一冬を“吹き”(吹雪)の吹き荒れる注連寺で過ごした“わたし”がそこでの生活の中で感じた老人達の生き方や“やっこ”(乞食)達の振る舞い、(反射的に自分のそこでの姿)を通してひたすらに冒頭の言葉に対する自分としての結論を見つけようとしている所がある。
 誰しも早いか遅いかという差違はあるにしてもいずれは“死”ということに真剣に向き合う時期が来る。“わたし”は庄内平野を転々としながらも食い詰めて、最後にたどり着いたのが注連寺であった。そこで一冬を過ごす中で、念仏に集う老人や老婆達の姿、これといって産業もなく、密造酒でかろうじて生きている村人達の姿、寺のじさま、時折寺を訪れる“やっこ”(乞食)達の姿。既に作者は“この世”では無い別の世界の者たちとして受け止めている所がある。
 そのような中でも、独鈷ノ山で出会った女性との淡い交流もあった。彼女との“先行き”が実現できれば、彼の世界から、この世界に戻れる・・・という様な思いも抱きながらも結局はそうはならなかった。願っていながらもそうならなかったことの背景にあるものは、それが生なのか死なのかも分からないからだったのか?その象徴的な姿として“セロファン菊”が出てくる。寒さに凍てて、セロファンのようになった菊の花は、そのままの美しい姿をとどめてはいるが、実はすでに死んでいるのである。
 また、もう一つ、冬の夜、部屋に舞い込んだ1匹のカメムシが、お椀の底から懸命に縁へ登ろうとしては転げ落ちている。そして、ようやく縁に上がることが出来ると、羽を広げて飛んで行く姿を見て、ならば、なぜ、お椀の底から飛んで行かないのか・・・?と思いつつ、そのカメムシの姿を自分に重ね合わせているのである。
 やがて春になり、村には村なりの活気が戻り、この世に自分を引き戻してくれる路線バスも、雪解けと共にかなり上まで上がってきた。“わたし”はまた、新しい世界へ行くことになるのではあるが、月山を取り巻く自然や人々の生き方はなんら変わる事も無く、ただ淡々と続いて行くのである。
“ですます調”の穏やかな文体で書かれたこの小説は、“わたし”の語るテーマの重さに反して、とても穏やかで幻想的な雰囲気を醸し出している。(「月山」が評価される所以は作品が持つテーマと共にこの表現方法も大きなウエイトを占めていると私は思う。)

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