
森敦の月山は私の好きな作品のひとつである。とても幻想的な作風である。しかし森敦の作品は月山しか知らなかった。今回初めて「浄土」で別の作品に触れたことで、新たな新鮮さを感じた。この「浄土」の本の中では「浄土」と「アドバルーン」が月山とは離れた作品であるが、後の3作品はやはり月山と同一の場面や精神背景の中にある。作者にとって、出羽三山の月山と七五三掛、そして注連寺はとても印象深いところなのだろう。この世ではない世界の感がする文章である。厳然と生きている自分や他の人たち、その生きている姿さえ、本当に生きているのか逝ってしまった後の世界なのか、それは月山を登っているときに“吹き”に吹かれてどこか別の世界に閉じ込められた、そんな感がするのである。
巻末の作家案内に、森敦の作品の原理を数式や幾何学にて解説しているが、どうも私には理解する意欲がもてない。不思議な雰囲気はそれだけでいいのだとも思うのだ。死後の世界に近い森敦の作品に人はなぜひきつけられるのだろうか?それは、現在生きているこの現実の世界、その中には多くの苦しみがあり、日々その苦しみと戦いながら、人々は生きている。もちろん月山の作品の中に出てくる人々も例外ではない。現代社会と比べてももっと過酷な人生を送っている。そんな苦しみの連続な中で、ふと、死後の世界が極楽浄土であるという思想になびいてしまい、苦しさから逃れるために縊れてしまうものが少なくなかった。それは現在でも同じなのかも知れない。そのことの是非は誰にも語られることではないだろうと思う。森敦はそのような状況を淡々と見つめ、普段にあるものと同様に見ているような気がする。別に悲しむわけでもないし、ましてや喜ぶわけでもない。ただ、淡々とその事実を受け入れているだけなのである。あの世があるなんておそらく信じては居ないのだろうが、それでも、死は苦しんでいる人を助けるひとつの方法であると思っているようである。


