

新訳だから、新しい物語のように感じられるが、なんとこの小説がリリースされたのは私の生まれた年なのだ。さらに、この物語の背景は戦争(第二次世界大戦)中だったのである。
題名の由来はアメリカの大都市、ニューヨーク、その五番街にある有名な宝石店「ティファニー」で朝食が食べれるというほどの身分、豊かさの比喩がこの小説のヒロインの言葉となっている。(実はティファニーにはレストランは無いらしい。)
夜の社交界なんて私たち庶民には実はあんまりイメージ出来ないのだが、その世界で脚光を浴びている映画女優のタマゴであるホリー、そして彼女をとりまく多くの男達。彼らとの空騒ぎ。
そしてこの物語を語る同じアパートに住む小説家を目指す“僕”(若き日の作者の姿が垣間見える)さらに、ホリーや“僕”が常日頃から頻繁に電話を借りるために出入りしている近くのバーのマスター“ジョー・ベル”も実はホリーのことがとっても気になっている。
物語の後半、彼女はマフィアのボス、サリーとの関わりで逮捕され、保釈中にブラジルへ高飛びする。“僕”やジョー・ベルはその逃避行に手を貸すのだが、それ以来彼女の消息は無くなる。
そして、物語は冒頭のジョー・ベルからの電話・・・に戻るのだ。
訳者の村上氏は、原作と映画の齟齬がとても気になっているようだ。ヒロインの選定も、脚本の構成も全てが原作とは相容れない・・・と思っている。そういえば元々この小説が映画化される時、作者のカポーティはマリリン・モンローをヒロインに推薦したというエピソードがある。しかし、彼女は娼婦役を嫌い断ったため、オードリー・ヘップバーンがヒロインとなったとのことだ。
物語中の“僕”が思うヒロインのイメージはどちらかと言えばオードリーの方が似合っているように私個人としては思うが、翻訳では原作の雰囲気が間接的にしか伝わらないため、そしてまた、その原作の時代背景も理解しないとどんな女優が適しているかはなかなか判断出来ないが、とにかく村上さんは、本の表紙に映画の場面を使うことすら嫌がっているのだから、映画と原作の乖離感は相当あるのだろうと思う。(そんなことを考えていると、ますます映画も見たくなってきた。)
若き日の思い出、それは懐かしく、ほろ苦く、愛おしいものだ。思い出の箱の中にそれを大切にしまっておいて、なにかある時にだけ取り出してみる。そんなことが出来る者もあれば、ジョー・ベルのようにそれを一時たりとも忘れることが出来ず、毎日延々と散歩をし、街中に彼女の歩く姿を探し求めている者もいる。しかし彼女は“僕”やジョー・ベルの思いなど知らないのだ。
彼女が身近な所へほんの少し振り向けば、もしくはほんの少し時間を割いて話すことが出来ていれば・・・彼女の人生は違ったものになっていたかも知れない。
しかし、彼女はそんなことなんて分かるはずがないし、また、求めているものでは無いかも知れない。そんな人生のすれ違いを思わせる小説であった。


