
打ち続く不景気と厳しいリストラ、どうしようもない上司に苛まれつつも、日々努力を続けてきた。しかし、この齢になり我慢を続け年老いて行く自分の人生があまりにも可哀想に思えて来たのだ。だから、早期退社の募集があったときは渡りに船と募集に乗ってしまったのであった。
面倒見のよい春日のこと、部下からは驚きの声と共に、慰留の声も多く、また、その中にはなんと今まであれだけ嫌事を言い、パワハラ寸前の罵詈雑言を浴びせていた上司、山田常務からも出されていたのだ。春日は、「無能なやつだから、フォローしてくれる部下がやめちまうと困るんだろう・・・」と全く相手にしなかったのであったが。
さて、これからは自分の人生、悔いを残さないように好きなように生きるぞ!と春日は決意新たに新生活をスタートさせたのであった。
新生活のスタートは、昔欲しかったものを手にいれることであった。車、レコード、オーディオ機器、楽器、無線機、カメラ、バイクなど、春日のほしいものはマニアックな物が多く、しかも、壊れているものでないと興味がわかなかった。彼の趣味は“往年の名機”とよばれるものを自分の手で修理し、再びこの世の表舞台に立たせる・・・ということを無上の喜びとしていたからである。
先週春日は、念願の通信型受信機(無線通信をするために開発された受信機)をネットオークションで手にいれた。それは“9R59”というなんだか映画スターウォーズに出てくるロボットの名前のような受信機であった。
実は、春日はこの受信機に大変なこだわりを持っていた。彼が中学生の頃、家が貧しかったため、当然ラジオなんぞは買ってもらえない。3ヶ月に1回ある、粗大ゴミの日には早朝から近所のゴミ置き場を回り、壊れたテレビやラジオを見つけると、家に持ち帰り、部品を収集していた。自称”天才ラジヲ少年”は、そのように収集した部品でラジオを組み立て、”9R59”にはとても敵わない性能ではあるが、「いつかは”9R59”」との合言葉を胸に秘め、日々その自作ラジオの改良に励んでいたのであった。
”9R59”はすくなくとも半世紀前の受信機である。当時は、名機の誉れも高く、アマチュア無線家の標準機として使用されていた。それをネットオークションで発見したとき、春日は小躍りした。パソコンで見るその受信機の姿はダイヤルの文字が多少は薄くなっているという使用感はあるが、50年前の受信機とは思われないような奇麗さであった。
オークションで競合する相手は数名いた。日頃、彼はオークションにはあまり執着しない方なのだが、「とにかくこれだけは・・・」という思いで、この時ばかりは破格の金額を入れ、とうとう入手したのであった。ま、破格の金額といっても貧乏性の春日のこと、普通の人が見ればそれほど大した金額ではないのだが・・・。
着払いで届いたその機器はパソコンの画面で見たときと比べると、更に古びて見えたが、春日は、念願の受信機を手に入れ、とにかく有頂天であった。受信機のケースやパネルをなぜたり、さすったり、スイッチやつまみをあたかも動作しているかのように操作してみたり、そして、小声で、受信機に「きっと復活してやるからな。それも昔よりさらに性能をアップさせてやるよ。」とささやきかけていたのである。(おー寒っ!)
すでに音が出なくなって久しいであろうこの受信機の修復は、すべて分解して新しい部品を使い組み直すより他に方法はなかった。鉄のシャーシの裏側にあるすべての配線、抵抗やコイル、コンデンサを取り払い、トランスはそのカバーの塗装をやりなおした。
分解は2日で完了、その過程で配線を見ながら回路図も作成した。これがないと元にもどらないからだ。”9R59”は昔のラジオとしては随分贅沢な作りであることがわかった。“高1中2”自分の息子の学年を言っている訳ではない。この受信機は高周波1段増幅、中間周波2段増幅という意味である。要するに“感度が高い”ってこと。真空管は9本も使用されており、可変周波数のBFO、可変選択度、ノイズリダクション、バンドスプレッド、アンテナトリム・・・・昔作った5球スーパーより遙かに機能が豊富である。春日は受信機のパネルを眺めながら機能が復活した時の操作感を遠い目で夢想していた。
秋葉原、昔そこは、“ラジヲ少年”達にとっては聖地であった。街全体が電気屋であり、薄暗い路地には多くのジャンク屋がひしめき、いろんな電気部品や中古の電気製品、米軍放出の無線機や、真空管が所狭しと並んでいた。普通の人が見ればゴミにしか見えないそれらの物に、“天才ラジヲ少年”は目を輝かしていたのであった。
しかし、秋葉原は変わってしまった。今やアニメの世界から抜け出てきたようなかわいらしいメイド服の女の子とガンダムを主とするフィギュアの店ばかりが巾をきかせ、ジャンク屋なぞはどこにも無くなってしまったのだ。その中で、未だにがんばっているパーツ屋も無くはなかった。春日はそのうちのひとつである“ラジオセンター”に来て居た。それはかの受信機の復元に必要な電子パーツを求めるためであった。
抵抗器は、昔のL型という筒の両側に針金が出て居るものが使用されていたが、これはすべて“金属皮膜抵抗”に交換。パラフィンでコーティングされている“ペーパーコンデンサ”は“マイラーフィルムコンデンサ”に換装、マイカコンデンサはセラミックコンデンサに、“電解コンデンサ”に至っては、かの時代のものと比べると半分以下の体積で、同じ性能のものが出ているのだ。技術の進歩は早い。
当然真空管も新しいものを購入する。既に国産の真空管は無くなり、現在はロシア製品が巾をきかせている。
部品の調達を終えると、客引きをするかわいいメイドさんに後ろ髪引かれながら、(俺の今の恋人は”9R59”なんだ!と無理やり自分に言い聞かせ)いそいそと家路を急ぐ春日であった。
翌日は、朝から食事もそぞろに、昨日購入した部品を並べて早速組み立てにかかる。
まずはアースライン、取り外して奇麗にクリーニングした真空管ソケットをシャーシにビスで固定し、その中央にある金属筒に裸線をハンダ付けしてゆく。ソケットを渡る部分にはエンパイヤチューブという絶縁チューブを被せる。最近はカラフルなビニールチューブがたくさん出回っているが、春日にはこだわりがあった。真空管セットの絶縁被覆はエンパイヤチューブでないといけないという。
次に真空管のヒーター回路を配線してゆく。トランスの6.3ボルト端子から、2本のリード線をからめながらソケットを渡って配線してゆく。そしていよいよ抵抗やコンデンサのハンダ付けだ。真新しいパーツのリード線を、ソケットの足や、ラグ板といわれるパーツを支持する部材の端子にからめながらハンダ付けしてゆく。余ったリードはニッパでカットする。部品の配置はシャーシの長方形に対し、水平もしくは直角に付けた方が整然として仕上がりが奇麗に見える。高周波回路で、極力短距離で接続しなければならない物以外はそうして行った。
周波数帯を切り替えるロータリースイッチも事前に奇麗に端子のハンダを吸い取り、クリックの鋼球周辺にこびりついていたグリスはクリーナーで溶かし、ふき取った後にシリコンオイルを少しだけ付けて置いた。シャーシに組みつけたロータリースイッチはとても気持ち良く動くようになった。判固定抵抗・・・所謂ボリュームは、これも一つずつカバーを外し、抵抗の摺動部は無水アルコールで清掃した。幸いボリュームは3つともノイズが無くなった。
レストアをしていると時間を忘れてしまう。既に深夜3時である。根を詰めて作業をしたので、少し疲れているが、まだまだ大丈夫だ。少々頭の中がフワフワするが、気のせいだろう。すべてのパーツが付け終わった頃は既に東の空が明るくなりかけていた。真空管を挿さずに、電源を投入し、異常が無いか確かめる。この作業は真空管セットを作成した時の常識だ。いきなり真空管を挿して電源をいれると、配線間違いがあった時真空管を壊してしまうからだ。そして、次は真空管ソケットの各ピンに加える電圧のチェック。プレート195ボルト、グリッドバイアス電圧50ボルト・・・・よしっ!すべてOK!真空管を挿して、シールドケースを被せる。そしてスピーカーをつなぐ。いよいよ”火入れ式”である。”火入れ式”とは、ラジオやアンプなどを製作した時に一番初めに動作させる時の儀式なのだ。儀式とは言っても、単に製作者自らの気持ちだけのことなのだが、今まで苦労して回路設計、部品集め、そして、製作という、過程を経て来た一番最後の締めくくりの行事なのである。
アンテナ端子に自作の中波発振器をからげ、スピーカーからの信号が大きくなるようにトラッキング調整を行う。
なんて順調なんだ!日頃は試行錯誤や迷い、不運、移り気・・・なんやかんやで人生あまりうまく行ったことは無いのに、この受信機のレストアだけは非常にスムーズである。フッフッフッ!不気味な笑い声を発しながら、春日はようやく俺にも運が向いて来たのかも・・・と喜んでいるのであった。
はやる心を押さえて、一旦スイッチを切り、アンテナ端子に以前、家の回りに張った20メートルほどのロングワイヤーを繋ぐ。受信機との間には、これも自作のカップラーを接続する。エアダックスコイルとバリコンで作ったものだ。
アンテナの接続を終えると、一息いれる事にした。昔、自作のラジオやアンプを作った後、とにかく早く電源をいれて動作するのが見たかった。しかし、たいがいそのような時には一度ではうまく行かない事が多かったのだ。一呼吸入れることで、頭のなかが整理でき、製作している過程での間違いなどが、わかってくるのである。作業台の横においてあるコーヒーサーバーからすでにたててあったモカブレンドを注ぎ、ブラックで一口すする。ラッキーストライクに火を点け、深く一服、ゆったりとした気持ちになる。
そうだ、自分はこんな場面を今まで望んでいたんだ。コーヒーとタバコの香りにつつまれて、ジャズを聴きながらゆったりと時を過ごす。やらねばならない課題はすでに終え、後は結果を待つばかり、そんな場面である。今はもう仕事の場面では無くなったが、これからは“往年の名機”と言われるいろんな物をレストアしていく。苦労をして頂上(つまり完成)にたどり着くその一歩手前で今までの道のりを思い返して見る。春日はそんな場面を夢想していた。
さーて、ぼちぼちスイッチを入れるか。春日は、準備が整っている受信機の電源スイッチとなっているファンクションつまみを厳かに回した。周波数を表示しているパネルに照明ランプが灯った。真空管のヒーターが加熱され、カソードから熱電子が飛び出して来るまで少しの間待つ。いよいよだ、ゆっくりとボリュームを右へ回す。だんだんとホワイトノイズが大きくなってくる。モードはAM、バンドは中波、まずは中波放送から受信を試みる。周波数ダイヤルをゆっくりと右へまわして行くと・・・" ガッ!・・・なにかが入った!先程よりさらにゆっくりと今度はダイヤルを左に回す。“fast of all・・・”ん?英語だ。続いて明るい男性ボーカルが聞こえてくる。ビーチ・ボーイズのサーファーガールだ!このシチュエイションには覚えがある。昔高校生の頃、BCLに熱中していた頃、夜中に、ノイズに埋もれながら微かに聞こえた1966年、カリフォルニアのラジオ局KNBCだ!今はこんなにクリヤに聞こえている。
春日は、辺りの雰囲気がおぼろげな中に変化していることに気がついた。ここはビーチ、厳しい日差しがパラソルのすきまから春日の顔に降りかかる。”9R59”はリクライニングチェアー横のテーブルの上からビーチ・ボーイズに変わって、ハーマンズ・ハーミッツを流していた。水辺にはビキニ姿のギャル達がビーチボールと戯れているのがサングラスごしに見える。春日はスピークイージーを飲みながら、リクライニングチェアーでくつろいでいるのであった。
あー、ここはカリフォルニアのビーチなんだ。自分はなぜここにいるのだろう?それにしても暑いな!額がじりじりするほど暑い。カリフォルニアの日差しは本当に強いな。こんな状態じゃ、すぐに真っ黒に日焼けしちまうよまったく。あした会社に行くと嫌みな上司の山田常務にどれだけ皮肉を言われるか・・・、あ、そうか、俺はもう会社辞めたんだ。バカな上司に気を使うことはもう無いんだ。はは・・・。
それにしても暑すぎる・・・・・・・・“う、うわっ!!・・・”
あわてて跳ね起きると髪の毛の間から煙が上がっている。根を詰めて修復作業をしていたので、いつの間にかハンダ鏝を握ったままシャーシの上に突伏して寝てしまっていたのである。そしてハンダ鏝の熱せられた鏝先が髪の毛を焦がしていたのであった。
あー、夢だったのか。でもいい夢だった。俺がガキの頃夢見ていたシチュエイションそのままだったなー。半世紀前に生まれたこいつ(9R59)が、つかの間見せてくれた夢だったんだ。春日は作業台の上の受信機を愛しそうになぜたのであった。 (了)
(この物語はフィクションです。実在する人物、団体と関係があるように思えるとしたら、それは単なる気のせいですので、あまり意識しないようにしてください。)


