
(これは昨日11月21日の記事です)
今朝の散歩は以前から気になっていた水足の地区へ行ってきた。
水足地区は五ヶ井用水と同じ所から取水している新井(しんゆ)水路の上にある地区(加古川の中位段丘の上)です。
ここには歴史的な遺物が三つあります。
一つ目は、円筒形の句碑。
”凩や・・・”で始まる句、誰の句なのかわからないが、”二世 雲邨”(・・・と読むのだろうか?)と刻まれている。

終戦が近い頃、米軍の航空機より機銃で打たれたという傷が残っている(とグーグルマップに出てくる解説に書かれている)

頂部の傷がそうなのだろうか?

機銃痕はさておき、誰の句で、なんと読むのかが知りたい所です。

一枚目の写真で全景が分かるように、狭い敷地に柵を巡らして更に植栽まであるので中に入れない💦

向かって左側には得体の知れない錆びた鋼材があります。
大事にされているのか、そうでないのか?

次の遺物は先ほどの句碑の少し東、お堂の横にあります。

石棺や宝篋印塔などです。
周辺にあったものをこの場所にまとめたのでしょう。

中に何か掘ってあるのかと見ましたが、単なる石棺でした。どこか周辺の古墳から掘り出してきたものなのでしょうね。

当然来歴もわからないので、案内板にも書き用がないですね。

縁に雨だれ痕がありますので、長い間刳られた面を上にしてどこかにおいておかれたのでしょう。水槽として使っていたのかも知れませんね。

三つ目は”平木橋”という名前の水路橋です。

水足の集落の東の端にある公園の横に移設されています。

この水路橋は2枚前の写真の遠景に移っている”東播磨南北道路”が出来る際、そのルート上になることからここへ移転されたもの。その昔、南北道路がまだない頃、父親と現地へ見に行った事を覚えています。藪の中にありましたが、当時は何でこんなところにアーチ橋があるのか見当が付きませんでした。

この写真が昔あった場所です。
この地域は印南野台地のほぼ末端部分、曇川からポンプアップした水を東郷池(加古川刑務所の場所に造られていたため池・・・今はもうない)に溜め、そこから”千間溝”で”平木池”(これも既にない)に注水、この水を平木池から更にその先の池(恐らく萬歳池?)に送るときに、”皿池”から”戸ケ池”への低い位置にある水路を越すために掛けられた水路橋が平木橋ではないかと思われます。

淡山疎水、ため池群、そして曇川関連の水路ネットワークは非常に興味があるので、現在調査中なのですが、その一つとしての水路橋が平木橋なのです。

こちらは現在見ることが出来ない水路部分。幅60センチの水路です。

こちらがアーチの”要石”水路橋は石とレンガで作られています。

平木橋は幸いに取り壊されこの世から消えることなく移設されました。移設場所は平木橋とはあまり関連の無い、近在のため池の上にですが、利用形状や関連性を考えると移設場所が無かったのでしょう。しかし、その姿が残されたという事は良かったと思います。

平木橋は土木遺産になっていました。
実はこの近くにもう一つとても重要かつ興味深い施設があります。民家の敷地の中になってしまったのかも知れませんがまだちゃんと残っています。(サイフォンの遺構です)これも残してほしい物の一つです。
今日は随分マニアックな散歩となりました。
今朝の散歩は以前から気になっていた水足の地区へ行ってきた。
水足地区は五ヶ井用水と同じ所から取水している新井(しんゆ)水路の上にある地区(加古川の中位段丘の上)です。
ここには歴史的な遺物が三つあります。
一つ目は、円筒形の句碑。
”凩や・・・”で始まる句、誰の句なのかわからないが、”二世 雲邨”(・・・と読むのだろうか?)と刻まれている。

終戦が近い頃、米軍の航空機より機銃で打たれたという傷が残っている(とグーグルマップに出てくる解説に書かれている)

頂部の傷がそうなのだろうか?

機銃痕はさておき、誰の句で、なんと読むのかが知りたい所です。

一枚目の写真で全景が分かるように、狭い敷地に柵を巡らして更に植栽まであるので中に入れない💦

向かって左側には得体の知れない錆びた鋼材があります。
大事にされているのか、そうでないのか?

次の遺物は先ほどの句碑の少し東、お堂の横にあります。

石棺や宝篋印塔などです。
周辺にあったものをこの場所にまとめたのでしょう。

中に何か掘ってあるのかと見ましたが、単なる石棺でした。どこか周辺の古墳から掘り出してきたものなのでしょうね。

当然来歴もわからないので、案内板にも書き用がないですね。

縁に雨だれ痕がありますので、長い間刳られた面を上にしてどこかにおいておかれたのでしょう。水槽として使っていたのかも知れませんね。

三つ目は”平木橋”という名前の水路橋です。

水足の集落の東の端にある公園の横に移設されています。

この水路橋は2枚前の写真の遠景に移っている”東播磨南北道路”が出来る際、そのルート上になることからここへ移転されたもの。その昔、南北道路がまだない頃、父親と現地へ見に行った事を覚えています。藪の中にありましたが、当時は何でこんなところにアーチ橋があるのか見当が付きませんでした。

この写真が昔あった場所です。
この地域は印南野台地のほぼ末端部分、曇川からポンプアップした水を東郷池(加古川刑務所の場所に造られていたため池・・・今はもうない)に溜め、そこから”千間溝”で”平木池”(これも既にない)に注水、この水を平木池から更にその先の池(恐らく萬歳池?)に送るときに、”皿池”から”戸ケ池”への低い位置にある水路を越すために掛けられた水路橋が平木橋ではないかと思われます。

淡山疎水、ため池群、そして曇川関連の水路ネットワークは非常に興味があるので、現在調査中なのですが、その一つとしての水路橋が平木橋なのです。

こちらは現在見ることが出来ない水路部分。幅60センチの水路です。

こちらがアーチの”要石”水路橋は石とレンガで作られています。

平木橋は幸いに取り壊されこの世から消えることなく移設されました。移設場所は平木橋とはあまり関連の無い、近在のため池の上にですが、利用形状や関連性を考えると移設場所が無かったのでしょう。しかし、その姿が残されたという事は良かったと思います。

平木橋は土木遺産になっていました。
実はこの近くにもう一つとても重要かつ興味深い施設があります。民家の敷地の中になってしまったのかも知れませんがまだちゃんと残っています。(サイフォンの遺構です)これも残してほしい物の一つです。
今日は随分マニアックな散歩となりました。
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