
2月8日、母親の7回忌法要の後、墓参りに行った。
その時墓地の前にこんな石の道しるべを発見!写真に撮って来た。
何が書いてあるか解読してみようと思う。

まず東面、すく新在家 石工宗兵衛 (すぐそこが新在家 製作者は石工の宗兵衛さん)

西面は、すく国包 三木 (すぐそこが国包、三木)

南側はちょっと字が多い。右 大野おみや、左 高砂 加古川 (大野おみやとは日岡神社の事か?)

最後に北面は、すく加古新田 大野邑 文政十丁亥年春三月 西国同行中 (すぐそこが加古新田 大野村で文政10年(1827年) 3月に西国33か所巡りの仲間がお金を出し合って寄進したもの・・・)・・・というような意味か?

もう193年前の石碑だったんですね。この墓地の前の道は確かにずいぶん古い面影がある。加古川川岸段丘の一番上を通っている道なんですね。そしてここが分岐点だったのでしょう。この先もまだ一部昔ながらの道がある。久しぶりに歩いてみたいものです。
その時墓地の前にこんな石の道しるべを発見!写真に撮って来た。
何が書いてあるか解読してみようと思う。

まず東面、すく新在家 石工宗兵衛 (すぐそこが新在家 製作者は石工の宗兵衛さん)

西面は、すく国包 三木 (すぐそこが国包、三木)

南側はちょっと字が多い。右 大野おみや、左 高砂 加古川 (大野おみやとは日岡神社の事か?)

最後に北面は、すく加古新田 大野邑 文政十丁亥年春三月 西国同行中 (すぐそこが加古新田 大野村で文政10年(1827年) 3月に西国33か所巡りの仲間がお金を出し合って寄進したもの・・・)・・・というような意味か?

もう193年前の石碑だったんですね。この墓地の前の道は確かにずいぶん古い面影がある。加古川川岸段丘の一番上を通っている道なんですね。そしてここが分岐点だったのでしょう。この先もまだ一部昔ながらの道がある。久しぶりに歩いてみたいものです。
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