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2台のクーペと”四方山果無(よもやまはてなし)”World

遍路に関するエッセイ集「日本の名随筆別巻21”巡礼”」(早坂暁編)

 4月初めより始めた四国歩き遍路はまだ半分しか進んでいないが、歩くなりに色々と思う事もあり、”区切り打ち”から帰宅する都度図書館で遍路に関する本や真言宗、般若心経に関する本を借りてきては読んでみたりしていた。少なくとも88箇所の遍路が終わるまでには”遍路とは何か?”が解るようになっていたいと思うのだが、果たしてどうなるのか?
 更にまた、この歳(還暦)になって何を今更と言われるかも知れないが、”信仰”とは何なのか?という疑問が改めて出てきたのだ。これについてもあわせて考えて行きたいと思っている。
 遍路に関する書籍は多い。
久百々の本1
 これは民宿くももにあった書籍であるが、遍路の発祥からその変遷、真言宗やその開祖である空海の事、更に旅行記やガイドブックにいたるまで各種の本が書かれている。我が市の図書館で見たものと同じ物が一つも無かったので、まだまだかなりの書籍が出ているのではないかと思う。
久百々の本2
 さて、以前に書いたかも知れないが、我が家(の先祖)は真言宗を信仰していた。(というより地元のお寺が真言宗だからご近所さん含めてすべからく真言宗なのである)だから、四国遍路に回るとき、その中で唱える”真言”や”般若心経”は初めて接したものではなかった。実は法事の時には何度も唱えていたのである。しかし年に2~3回の盆や彼岸や法事の折りはそれは単にそういうものだと認識して周囲の行動を真似ていたに過ぎないのだ。そんなものなのである。
 しかしこの度の歩き遍路は、自ら発念して回り始めたものであるから、なんぼ何でも、おこなっている行為についてその理由を認識しておかねばいけないと思ったのである。
八栗寺
 現在の遍路の各種緒元は江戸時代末期あたりに形作られたもののようで、箇所数88や、順番などはその頃形をなして来たようだ。昭和初期には本堂に加えて大師堂が造られ、1ヶ寺で2ヶ所を参拝する事になる。遍路の目的は人によって様々なのだが、下にあるように必ずしも重荷を背負っている場合ばかりではない。レクリェーション的な目的での遍路も昔からあったようである。

「生の重さ背負いて往くへんろ杖」(西岡寿美子)
「若くて身に憂いがないときに、人は怖れを知らない。怖れを知らない心は神仏からは遠い。幼児や少年が、自ら求めて神仏に近づくというのも異常だが、四十代、五十代にもなって、あまりに精神が健やかで、わずらいを知らないのも何か寒々しい。生の重さは、歳を重ねるにつれ身にしみるもののようである。」
 私は思うに生の重さは歳を重ねることで重きを感じるという場合ばかりではない。若くして逝った作家の多くも十分に生の重みを伝える書き物を残している。遍路というのは年齢には関係なく悩みや重荷、問題を解決する、もしくは解決の糸口を見つける一つの手段ととらえる事も出来るだろう。だが、遍路をして居る人は必ずしもそのような問題を持っている人ばかりでないことも事実である。
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衛門三郎

 また、遍路という行為は歩く側ばかりが主体では無い所があると思う。下記のエッセイはまさに遍路を迎え、送る側の立場での思いである。

「遍路幻想」(村上護)
「お大師さまは死んでいない。だから今も四国を回っているかも知れない。」
 伊予大洲の人、宇和島の北、八幡浜の東に住んでいた村上護るの祖母の思いである。回る側の者ではなくそれを迎え、また送る立場からの視点。
 昔の遍路は乞食が普通であった。装束も今のように決まっては居なかった。しかし、受け入れる側は村上の祖母の思いと同じ平等であった。
 それは、巡ってくる遍路の中にお大師様の化身が居られるかも知れないという思い(怖れ)であった。その背景には衛門三郎の逸話があるのだろう。(この逸話というか物語についてはまた別の場所で自分の思いを語りたいのだが・・・)そんなことを想像すると、四国の方々は何といい人ばかりだろうと思う。皮肉でもなんでもなくて本当にそのように思う。まさに“信心”そのものであろうと。
 (以上、出典:日本の名随筆別巻21早坂暁編)
(つづく)
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