(これは少し前の出来事です)
仕事で京丹後市に行く機会があり、時間があったので秋も深まっているであろう味土野に寄ってみた。
ここに私が初めて訪れたのは1981年頃、それ以降約14年、ここへは数えきれないほどの回数来ていた。しかし、かつてあれだけ通った道だったのにこの度改めて訪問しようとしたとき、そこへの道を忘れている自分に驚いた。“去るものは日々疎ましい”去った場所も同じようなものなのだろう。
現地への沿道風景も結構変わっていた。かつてあった建物がなくなり新しい建物ができていたり、広大な畑ができていたり、中山峠のスノーシェッドが新しくなっていたり。しかし味土野へ登る最後の山道は昔のままであった。途中、味土野大滝はガラシャ大滝に名前を変え、案内板や幟がたくさん立っていた。そう、今某テレビ局でやっている時代劇の舞台のひとつのようだ。

味土野山房の入口に車が止まっていないので、残念ながらOさんは不在?となりのKさん宅には布団が干してあったので、誰かが住んでいるようだ。ということで山房は後で訪ねることにして、最初に訪ねたのは”ガラシャの碑”、下の広場には四阿が2棟新しく出来ていた。

ドラマの効果なのか車が2台止まっていた。碑のところには案内板も整備され、細川ガラシャが隠棲していた時の建物配置や、見張り場所である“おじろ”(男城)跡の案内もあった。

ちなみに麓の集落やここへ上がってくる途中にも味土野大滝(今後はガラシャ滝と呼ばせたいようだ)やガラシャの碑の案内看板が新たに出来ておりドラマの影響は大きいなと感じた。

続いて当時焼き物を焼いていた穴窯の跡へ歩いて行く。

かつておいしい湧き水が出ていた場所にはコンクリートの水槽が設置され殺風景になってしまった。

しかし別の場所には新たにガラシャの化粧水と名付けた湧き水があった。(あんまりガラシャさんの名前ばっかりつけるのは少々興ざめである)

「ふるさと味土野の地」の石碑の傍にある大直日神の石佛はむかしの姿のままであった。

更に道を上ってゆくと、当時秋の稲刈りの後、稲束を掛けていた稲木がまだ残っており、その下にはK.Kさんの家があったが、納屋の方は屋根が抜けてしまっていた。豪雪地である味土野では、維持をしない建物はやがて朽ちてゆく。

秋空とススキの穂が揺れる道を更に登る。

そこここにK.Iさんが建てたかつてここには何があったのかを示す石碑がある。

やがて“穴窯”の跡地へ着いた。しかしそこにはもう何もない。単に狭い平地に背の高いススキが生えているだけ。でもそこに立つとかつて楽しかった窯焚きの時が目に浮かぶ。

更に奥、お宮のあるところまで行こうと思ったが、途中からは草が生い茂り入れなくなっていた。(この道は等楽寺という集落まで下りる道なのだが、帰り際に等楽寺側登り口を見ると、全面通行止めになっていた。土砂崩れなどで道が損傷を受けているのだろう)交通量が少ない道は放置せざるを得ないのだろうな。
道端にはかつては無かった、農業倉庫のような建物が作られており、そこここに野菜やソバの畑が作られている。穴窯から道を挟んで反対側の斜面下には広大な畑が開かれていた。時の流れと共にここも少しずつだが変わって行っている。

車をかつてのアジサイ園脇に出来た駐車場(金剛童子山登山口)に停める。ちなみにアジサイ園に植えたアジサイは結構大きくなり繁茂していた。

そして、かつての分校跡を宿泊施設に改装したガラシャ荘へ歩いてゆく。ガラシャ荘は建物は健在であり、若干のリフォームも施されている。新しい建物も増えていた。

庭先に若い人が居たのでOさんやKさん宅の住人の事を聞いてみると、Oさんはお元気で暮らしておられること、Kさん宅には今住んでいる人がいるとのことだった。

彼は来週末24日に地元で開催される芸術祭だったかに作品(染色)を出品すべく準備していると言っていた。

最後に車は無いけど、山房の様子だけでも見に行くか、と登っていくと、道の途中に車が止めてあった。どうもぬかるみにはまり、身動きできなくなってしまったようだった。ならばOさんは居るかも!と山房まで登り声をかける。Oさんは在宅だった。

会うのは四半世紀ぶりか?最初は私が誰だか分からなかったようだった。(そりゃマスクしていればわからないわ)。Oさんは風貌もほとんどそのままでお元気そうであった。少しの時間ではあったが囲炉裏端でコーヒーをごちそうになりながらかつてのメンバーの消息や味土野の変遷、漆や木工の話などをした。来月もまた来ると言うと次回はここで泊まっていけと言ってくれた。四半世紀の積る話もあるのでそうしようと思う。