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2台のクーペと”四方山果無(よもやまはてなし)”World

古い図面発見!

今日は樋門点検の日でした。いつものように樋門ゲートの稼働、予備発電機の試験運転、照明灯の点検、量水板の清掃などを実施し、現地にある五ヶ井土地改良区の詰所の修繕内容を検討するべく、室内を見ていたところ、古い図面箱を発見しました!
箱
明治37年調整「五ヶ井郷用水路総図面」という40センチ×60センチほどの木箱です。厚みは約5センチ。
後ろが郷の川図
中には3枚の和紙製の図面が入っていました。
中央の人の後ろに広げてあるのが、最上流の五ヶ井堰から曇川樋門までの”郷の川”部分の図です。
上流の図
そしてこれが上流部分。畳2畳分くらいの大きさ。
下流の図
そしてこれが下流部分。こちらは畳4.5畳分ほどの大きなものです。
五ヶ井堰と吞口
細部を見てみると、まずこちらが五ヶ井堰と吞口。右下の方には余水吐けのような部分もあります。
平松樋門
そしてこちらが平松樋門。図面左上には恐らく草谷川の合流。中央の樋門の左側にはこちらも余水吐け。そして4門の樋門の右側(下流)には上側に新井、下側に五ヶ井の用水路が描かれています。
図面には村堺や水路延長が書き込まれています。
曇川と荒ヶ瀬樋門
こちらは五ヶ井用水路(郷の川)の最流末にある曇川樋門(図面上側)と荒ヶ瀬水路の分岐部が描かれています。現在は4つの水路がありますが、この当時は水路は3つでそのうちの一つが少し下流で二つに分岐していました。
詳細2
図面の詳細を見てみましょう、こちらは五ヶ井の最下流付近、南備後村等、地先名や水路の分岐・集合などの姿が分かります。
水路幅も当時の状況を現しているのでしょう、広がったり狭まったりしています。また、赤線で県道が記載されています。
図面詳細1
構造物や水路には色が入っています。水路を渡る橋には名称が、そして分水箇所から主要なポイントまでの水路長が記載されています。一番端には鉄道も表されていました。
当時の関係者
最後に、3枚の図面の内、上流部の水路図の中に凡例と、調整された年月(明治35年12月)、図面名称「播磨国加古郡字五箇井堰普通水利組合関係地図」の記載、そして「当時の役員の名前、測量及び製図者の名前が記載されています。
管理者は氷丘村長、そしてこの時代から上流部に位置する大野村と中津村の総代は”定当番”として任命されていたようです。
とても興味深く、また、こんなに古い地図を見ることが出来たことは本当に僥倖に感じているのです。(ちょっとマニアックすぎるかも知れませんが💦)
本地図は”虫食い”も少なく、比較的保管状態は良いのだが、詰所の改修が予定されており、このままだと保管上の問題もあるので、五ヶ井土地改良区の事務所へ持って行ってもらいました。

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萬歳池揚水機械場のことを少し補足

昨日の記事で萬歳池と凱旋池の揚水機械場の跡地捜索について書きましたが、少し補足します。
萬歳池揚水機場の地図(抜粋)
出典:『東播磨の民俗』(石原完次著)1984.9神戸新聞出版センター
萬歳池が構築されたのは大正12年頃。
池を構築したこの地域(中一色)は印南野台地の高位段丘の上で従来より灌漑用水がありませんでした。
そのため、東側を流れる曇川より、萬歳池、凱旋池に水を汲み上げ、必要な時に利用できるようにするのが目的でした。
揚水ポンプの構造(縮小)
出典『加古川さんぽ(上・下)』(飯沼博一著)2019.5
揚水ポンプは当初20馬力の蒸気機関で稼働させ、後年には電気式となった。
曇川の「青之井・中井」に吸水口があり、126間(約230m)の暗渠で中一色の機械場まで流し、ポンプにより49尺(約15m)持ち上げて、再び暗渠により萬歳池等に送られていたという。
萬歳池ポンプ場(囲い)
出典:『東播磨の民俗』(石原完次著)1984.9神戸新聞出版センター(囲いは筆者)
当時の写真が上記書籍に残っており、今回教えてもらった場所(下の写真)は黄色く囲ったレンガ造りのタンクのあった場所である。
揚水受け口跡
少し余談ではあるが、この場所にかつてあったレンガ造りのタンクについては昭和55年(1980年)小学校の社会科の教科書『小学校社会四年・上』に載っており、地域学習モデルとなったとのこと。
揚水ポンプ跡
このレンガ造りのタンクの跡地より下を見ると、上の写真のとおり、少し前まで使用されていた揚水機場と石張りの受水槽が見える。恐らくこの場所にかつての”機械場”もあったのではないかと想像するのである。
現在のポンプ受け口跡
現在のポンプは少し前に故障して使われていないが、ポンプアップされた水はかつてのレンガ造りのタンクの近くに別途あり、
更に萬歳池直下にもう一台ポンプがあって、それにより池へ水を溜めているということであった。
今後のテーマは機械場の場所の確認と機械場の受水槽への流入水路の確認をしたいと思っているところである。
萬歳池石碑
前記までの記述は『東播磨の民俗』(石原完次著)1984.9神戸新聞出版センターにあるが、元々は上記「萬歳池石碑」の記述からのようである。ちなみに「萬歳池石碑」は神野町石守の県道18号線と383号線の交差点にある。
加古川さんぽ上下
ポンプ機械場の絵を引用した『加古川さんぽ(上・下)』(飯沼博一著)2019.5は、
加古川市内の歴史的遺物や人物、企業、古墳など歴史全般が記載されており、読み物としてはとても楽しい。広い範囲を網羅されており、興味深い記事も多い。

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凱旋池と萬歳池への揚水場跡地か?

川上真楽寺からの帰り道、以前車で通った凱旋池、萬歳池を再び訪れた。
目的は両ため池を結ぶ水路とサイフォンを見たかったからだ。
農免道路の”向”交差点から更に西へ行き、東播磨高校の方へ右折する。高校前を通過し、更に北へ。
中一色交差点手前を左折し、萬歳池の南側道路を奥へ行くと、萬歳池と凱旋池をかつてつないでいた水路の跡へ突き当たる。
その横にある小さなブロック小屋の横に車を停めて、そこから歩いて萬歳池堰堤に登る。
水路跡1
これが両ため池を結んでいた水路の跡だ。
水路跡2
所々、土砂が削られているがまだその姿が残っている。
萬歳池堰堤
まず、萬歳池の堰堤に上がってみる。
萬歳池への流入箇所
堰堤のすぐ横に接続水路が伸びて来ていて、一部切り欠きがある。その池側には流入工のような構造物があるので、ここが池への流入口かも知れない。
萬歳池のレンガ構造物
少し離れたところに、これもレンガ造りの四角い枠がある。これは灌漑用の流出口か?よくわからないが、レンガ造なので、かなり古いものではないかと思う。
凱旋池へ続く水路跡
再び接続水路に戻り、今度は凱旋池へ行く。
接続水路断面
接続水路の土砂が取られた所には水路断面が判る張りコンクリートがあった。この張りコンクリートは池が築造された時では無く昭和に入ってから補修した時に貼ったのだろう。
接続水路サイフォン跡
こちらが本日見たかった構造物である接続水路のサイフォン工!埋まったり、破壊されたりしているので、その全貌は判らない。
凱旋池の周囲水路
更に歩いて凱旋池の堰堤まで来る。凱旋池の周囲にも水路跡と思われる部分がある。
実はここで一人の地元の方(Mさん)と遭遇した!挨拶して、何の写真を撮っているのかを話していると、色々と昔のことを教えてくれる。凱旋池の周囲の水路跡のような痕跡はMさんが子供の頃には水が流れていたとのこと。
接続水路は赤土で丁寧に作られており、どこかから土を持ち込んで作られたようであるとか。
そして、実は今まで探していた曇川からの揚水をした二か所の場所、その一つの場所がMさんの言葉の中から出てきたのだ。
それはもう現在は無いが、昔、まだ存続していた時には子供たち(小学生)が沢山見学に来ていたという。
揚水受け口跡
それがこの地点だ。
いなみ野台地の高位段丘の下と思われる場所。
揚水ポンプ跡
そしてその下には、少し前まで曇川からの水を電気でポンプアップしていた集水井とポンプ小屋があった。(機械が故障して何年か前からは使用していないとのことだった)
この集水井は大正の時代からのもの、もしくは曇川からの導水路(暗渠)が再利用されているのではないかと思った。
取水場所は曇川の「青の井」とのことだったので昔と同じ場所である。
これからもう少し調査して確証を得たいと考えている。
現在のポンプ受け口跡
その後、案内していただいたのは現在ポンプアップしている水を受ける集水井でした。
揚水受け口から見た曇川
かつてのレンガ造りの集水井跡地から曇川を見た所です。
かつて稲美町の人々は大変な苦労をして稲作をしていたのだなと改めて思ったのである。
Mさんとはここで別れたのだが、また疑問点が出てきたらお教えいただきたいとお願いしたのであった。
今日は大きな収穫があったと思っている。

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川上真楽寺へ行った

昨年末にこのブログで紹介した川上真楽寺(かわかみしんぎょうじ)へ行ってきた。
(いなみ野のため池散策で叔父さんに出会った)
川上真楽寺全景
地元の稲美町北山に住む叔母が毎月7日と14日に清掃とお参りをしていると聞いていたので、居るかな・・・と思って行ったのだが、残念ながら時間が遅かったのか誰も居なかった。
入ヶ池の碑
このお堂は印南野ではかなり古い「入ヶ池」というため池の築造に係る伝説の「お入」さんを祀ってあるものであり、
境内には「入ヶ池由緒碑」があり、池の歴史や伝承などが書いてある(全部は読めなかったけど)。
この碑の中にも人柱となった「お入」さんの記述があった。
説明看板
ま、碑の漢字ばかりの文章をあえて読むまでも無く、説明看板もありました💦
美女お入さんを祀るこじんまりしたお堂は楚々とした佇まいで、昭和の時代にこの場所に新たに建設されたもののようだ。
曇川上流側
入ヶ池からの水は長府池、満溜池を経て、このお堂のすぐ横を流れる曇川を流下する。
曇川下流方向
そしてすぐ下流で琴池から小池を経て流下する国安川と合流し、流域を潤しながら最流末である加古川町大野の曇川樋門まで流れ加古川に合流するのである。
川上真楽寺より少し上流には長いサクラ堤があり、春にはとても美しい風景が楽しめるのだ。
(サクラ堤)

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淡山疎水・東播用水博物館へ行ってきた

(これは昨日1月12日の記事です。入力中に日が変わってしまいました💦)
117クーペの慣らし運転(自分自身が117クーペの運転に慣れるための”慣らし”💦)を兼ねて、加古郡稲美町野寺にある「淡山疎水・東播用水博物館」へ行ってきた。
博物館
実は今までこの博物館の存在を知らなかった。ため池に興味が出てきたから見つけたのかもしれない。
流域模型
館内には豊富な資料が展示されていた。
これはかなり古い疎水の流域図です。
模型
押すとランプが付く表示盤や・・・
御坂サイフォン写真
昔の工事写真、
昔のレベル
昔の測量機器
実測図
実測図など。
山田川疎水平面図古い
こちらの平面図などかなり古いものです。
初代の鉄管
屋外には淡河川疎水の御坂サイフォンに使われたイギリス製の鉄管もありました。
底樋
ため池の底から水を抜くための機構なのでしょうね。
パンフレット
沢山パンフレットもいただいてきました。
カード
こんなカードもいただきました。
過去の資料は人目に触れなければその内に散逸、廃棄されてしまいます。
このような技術的な遺産を保存し、公開するという事はとても大切な事だと思います。
よかったです。

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