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2台のクーペと”四方山果無(よもやまはてなし)”World

淡山疎水・東播用水博物館へ行ってきた

(これは昨日1月12日の記事です。入力中に日が変わってしまいました💦)
117クーペの慣らし運転(自分自身が117クーペの運転に慣れるための”慣らし”💦)を兼ねて、加古郡稲美町野寺にある「淡山疎水・東播用水博物館」へ行ってきた。
博物館
実は今までこの博物館の存在を知らなかった。ため池に興味が出てきたから見つけたのかもしれない。
流域模型
館内には豊富な資料が展示されていた。
これはかなり古い疎水の流域図です。
模型
押すとランプが付く表示盤や・・・
御坂サイフォン写真
昔の工事写真、
昔のレベル
昔の測量機器
実測図
実測図など。
山田川疎水平面図古い
こちらの平面図などかなり古いものです。
初代の鉄管
屋外には淡河川疎水の御坂サイフォンに使われたイギリス製の鉄管もありました。
底樋
ため池の底から水を抜くための機構なのでしょうね。
パンフレット
沢山パンフレットもいただいてきました。
カード
こんなカードもいただきました。
過去の資料は人目に触れなければその内に散逸、廃棄されてしまいます。
このような技術的な遺産を保存し、公開するという事はとても大切な事だと思います。
よかったです。

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ここにも叔父の名前が

一昨日、図書館で借りてきたいなみ野ため池ミュージアムの本、2012年発行だからもう11年前の本。
10年の歩み
読んでいると、何か所かに先日紹介した叔父の名前が出ていた。(いなみのフットパス)
「いなみ野ため池塾」で講義したりしている。
こんなところで活躍していたなんてちっとも知らなかった。

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いなみ野のため池散策で叔父さんに出会った

(これは12月23日の記事です、その日の内にアップせんと日記や無いで!と言わないで💦)
 年に一度しか行かないのだけど、加古郡稲美町北山にある叔母さん宅を訪ねた。
毎年正月前に一人暮らしの叔母さんにレンコンを届けているのだ。
今年はそれだけでなく、ちょっと聞きたいこともあったので、楽しみにしていたのだ。
それは何かと言うと・・・
いなみ野フットパス
 先日「いなみ野ため池ミュージーアム」でもらったこの地図に亡くなった叔父さんの名前が協力者として出ていたので、同性同名の可能性もあるので確認しようと思ったからなのだ。
 果たして、それは叔父さんのことでした!
 実は叔父さんはため池管理には結構熱心に取り組んでいて、テレビにも何度か出て説明していたとのこと。そして叔母さんも加古川のケーブルテレビ「BANBANテレビ」の取材を受けたことがあるとのことだった。
 更に叔母さんは、西暦714年に築かれたという「入ヶ池」この池にまつわる伝説で池の土手が崩れるという事でその対策で、人柱にされた「お入」さん、実はヘビの化身だったそうだが、この「お入さん」を祀った「川上真楽寺」で毎月7日、14日、(かつては21日も)に供養のために、寺の掃除、そして読経を続けているとのこと。
昔から延々と続けられているこの行事も今では叔母さんが最古老だとのことで今後続いて行くのだろうかと不安を漏らしていた。
 そして、ため池に興味があるのなら、叔父さんはきっと喜んだろう。そんな話をしだすと叔父さんの話は尽きなかっただろう・・・と、残念がってくれた。
 おじさんが健在の時分はまだ僕自身、そんな事には全く興味も無かったので致し方ない事なのだが、自分としてもとても残念に思ったのである。
 帰り際、ため池に関する叔父さんの資料が色々と残っているので探しておいてやると叔母さんに言われた。
お借りするのが楽しみである。

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早朝散歩(福沢方面へ)

今日は日曜日、平日に比べると、若干時間的制約は少ない(何言うてんねん!毎日日曜日やろ!と言われる方もおられるかも知れませんが…💦)
ということで、早朝散歩も少し遠い所まで行くことにした。
最近、興味を持っている、治水や利水の歴史的遺物めぐりと共に、戦跡も見てこようと・・・。
新井カンバン
ルートはまず日岡神社下の新井用水沿いに西(下流)へ歩く。
水路沿いの路
この道は”新井緑道”という名前が付けられており、結構歩きやすい。ま、水路沿いなので平坦だからね。
しかし、その昔は親から”決して新井の土手に行くな!ハメが出るぞ”といわれていたものでした。ハメとは毒蛇のマムシの事を指す、この辺りの言葉。まあ、今でもあちこちに「マムシ注意」のカンバンがありますが、昔は草がうっそうと茂っていて、確かにちょっと危なげな所でしたね。(・・って、行ってるやん!)
野口簡易郵便局
新井緑道の西の終点からもう少し歩くと、加古川野口郵便局のある橋がある。
一番目の目的はここ。「神野の弾薬庫引き込み線跡」です。
「加古川駅から神野弾薬庫に爆弾や兵士を運ぶために引かれた軍用線(鉄道)の名残りである頑強な「橋げた」が今も残 っ て い ます。弾薬庫の爆弾や弾薬は、中国やベトナムなどいろいろな戦地へ運ばれました。」(加古川市発行、平和資料、いくつ戦争の歴史を見つけられたかな?より引用)
引き込み線跡
ちょっとわかりづらいかも知れませんが、白っぽいパイプの向こうに見えている黒っぽい桁が引き込み線の桁です。
MCG611A-C12-9349航空写真
昔の航空写真でみれば黄色い〇印のところになります。写真左側が国鉄加古川駅、そこから右方向へ延びてきて、画面中央で90度向きを変えています。行き着くところはかつての”神野弾薬庫”現在は加古川刑務所になっています。(出典:国土地理院)
少し横道にそれますが、行きつくところの神野弾薬庫(現在の加古川刑務所)の場所にはかつて広大なため池がありました。「東郷池」といい、曇川から揚水して水を溜めていました。出典は『加古郡誌』(兵庫県加古郡役所 1972年(昭和47年))この辺りもとても興味があり、現在調査中です。また別の機会にお伝えしたいと思います。
ハリマ化成正門
お次はハリマ化成の正門です。ここはかつて「旧陸軍高射砲部隊第三連隊基地」でした。
先の資料では、「加古川飛行場を守るため、1938( 昭和 13) 年に、高射砲連隊(上空からの攻撃を地上から迎撃する部隊)が設置され、1943(昭和 18)年には、高射砲連隊に代わり旧陸軍航空通信学校加古川教育隊が設置されました。現在は、ハリマ化成株式会社内に、一部の建物が残っており、また正門・南門も当時のものになります。」(こちらも同じく加古川市発行、平和資料、いくつ戦争の歴史を見つけられたかな?より引用)
平木池記念碑
ここから東へ向かって歩きます。福沢の交差点方面です。
次の目的物はこれ。
平木池の記念碑です。
平木池は先日早朝散歩で水足へ行った記事で紹介しましたのでそちらを見ていただくことにして(早朝散歩水足・平木橋)
今回はその記念碑があることがわかりましたので写真を撮ってきました。
平木池跡
平木池はずっと以前に神戸製鋼所に売却され、社宅が立って居ましたが、数年前、その社宅も撤去され、宅地として売却されたようです。世の中の移り変わりは本当に早いなと思います。
平木池航空写真
こちらは池があった当時の航空写真です。(出典:国土地理院)
萬歳池記念碑
お次は萬歳池記念碑です。
この池はまだ一部あります。今はゴルフ練習場になっていますが、こちらも先の東郷池と同じ時期、(大正時代)に構築されたものです。
東郷池と同じく、曇川より蒸気機関を使って揚水していたことが記録にありますので、また詳細を調べたいと思います。
皿池北
本日の目的地も後少しとなりました。
こちらは東播磨南北道路により分断された皿池です。一面に蓮が生えていますね。これは北側の半分です。
遠くに県立医療センターの巨大な建物が見えています。
皿池南
そしてこちらが南側半分です。
漫然と池を見ているわけでは無く、その流入や流出についても確認しています。
そんなこと周知のことなのに・・・と言われるかも知れませんがま、興味の範疇ですので。
石柱
加古川刑務所前まで戻ってきました。刑務所前バス停に置いてあるこの石造物、以前から気になっています。これも弾薬庫か何かの門柱かも知れませんね。
これから日岡山公園を抜けて帰宅します。

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新たなカテゴリー”治水と灌漑の歴史”を作りました

 かつての職場を定年退職したあと、地元にある「曇川樋門」の操作員を引き受けた。
それが縁で、最近はこの地域の灌漑の歴史に興味を持ち、図書館へ行ったり、現地を見に行ったりしている。
今までにアップした記事の中にもいくらか、それに関した物もあるので、この度、新たに標題のカテゴリーを追加した。
 特に興味を引かれたのは、曇川の過去からの灌漑利用。日頃はほとんど流量の無い河川であるが、流末である曇川樋門までの間には12か所(詳細は確認中)もの倒伏堰が設けられ流域に灌漑している。いわゆる用水路としての利用で、下流においては五ヶ井用水の通路ともなっている。そして最上流は稲美町のため池である。
 明治時代には揚水機場も2か所あり、曇川の水をため池にポンプアップしていたことなど、知らないことが多かった。
 また、国内1のため池地帯である印南野台地のため池群についてもその変遷は興味深い。かつては降雨も少なく、取水できる河川も無い印南野台地では綿花の栽培がおこなわれていたが、加古川への流入支川である淡河川や山田川から取水し、延々と水路を作り、灌漑することにより、広大な水田地帯に変わった。昨今は稲作が減少し、都市化によりため池がどんどん埋められて行っている状況があるが、かつてあったため池やその流路の痕跡についても見て行きたいと思っている。

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