今日は日曜日、平日に比べると、若干時間的制約は少ない(何言うてんねん!毎日日曜日やろ!と言われる方もおられるかも知れませんが…💦)
ということで、早朝散歩も少し遠い所まで行くことにした。
最近、興味を持っている、治水や利水の歴史的遺物めぐりと共に、戦跡も見てこようと・・・。

ルートはまず日岡神社下の新井用水沿いに西(下流)へ歩く。

この道は”新井緑道”という名前が付けられており、結構歩きやすい。ま、水路沿いなので平坦だからね。
しかし、その昔は親から”決して新井の土手に行くな!ハメが出るぞ”といわれていたものでした。ハメとは毒蛇のマムシの事を指す、この辺りの言葉。まあ、今でもあちこちに「マムシ注意」のカンバンがありますが、昔は草がうっそうと茂っていて、確かにちょっと危なげな所でしたね。(・・って、行ってるやん!)

新井緑道の西の終点からもう少し歩くと、加古川野口郵便局のある橋がある。
一番目の目的はここ。「神野の弾薬庫引き込み線跡」です。
「加古川駅から神野弾薬庫に爆弾や兵士を運ぶために引かれた軍用線(鉄道)の名残りである頑強な「橋げた」が今も残 っ て い ます。弾薬庫の爆弾や弾薬は、中国やベトナムなどいろいろな戦地へ運ばれました。」(加古川市発行、平和資料、いくつ戦争の歴史を見つけられたかな?より引用)

ちょっとわかりづらいかも知れませんが、白っぽいパイプの向こうに見えている黒っぽい桁が引き込み線の桁です。

昔の航空写真でみれば黄色い〇印のところになります。写真左側が国鉄加古川駅、そこから右方向へ延びてきて、画面中央で90度向きを変えています。行き着くところはかつての”神野弾薬庫”現在は加古川刑務所になっています。(出典:国土地理院)
少し横道にそれますが、行きつくところの神野弾薬庫(現在の加古川刑務所)の場所にはかつて広大なため池がありました。「東郷池」といい、曇川から揚水して水を溜めていました。出典は『加古郡誌』(兵庫県加古郡役所 1972年(昭和47年))この辺りもとても興味があり、現在調査中です。また別の機会にお伝えしたいと思います。

お次はハリマ化成の正門です。ここはかつて「旧陸軍高射砲部隊第三連隊基地」でした。
先の資料では、「加古川飛行場を守るため、1938( 昭和 13) 年に、高射砲連隊(上空からの攻撃を地上から迎撃する部隊)が設置され、1943(昭和 18)年には、高射砲連隊に代わり旧陸軍航空通信学校加古川教育隊が設置されました。現在は、ハリマ化成株式会社内に、一部の建物が残っており、また正門・南門も当時のものになります。」(こちらも同じく加古川市発行、平和資料、いくつ戦争の歴史を見つけられたかな?より引用)

ここから東へ向かって歩きます。福沢の交差点方面です。
次の目的物はこれ。
平木池の記念碑です。
平木池は先日早朝散歩で水足へ行った記事で紹介しましたのでそちらを見ていただくことにして
(早朝散歩水足・平木橋)今回はその記念碑があることがわかりましたので写真を撮ってきました。

平木池はずっと以前に神戸製鋼所に売却され、社宅が立って居ましたが、数年前、その社宅も撤去され、宅地として売却されたようです。世の中の移り変わりは本当に早いなと思います。

こちらは池があった当時の航空写真です。(出典:国土地理院)

お次は萬歳池記念碑です。
この池はまだ一部あります。今はゴルフ練習場になっていますが、こちらも先の東郷池と同じ時期、(大正時代)に構築されたものです。
東郷池と同じく、曇川より蒸気機関を使って揚水していたことが記録にありますので、また詳細を調べたいと思います。

本日の目的地も後少しとなりました。
こちらは東播磨南北道路により分断された皿池です。一面に蓮が生えていますね。これは北側の半分です。
遠くに県立医療センターの巨大な建物が見えています。

そしてこちらが南側半分です。
漫然と池を見ているわけでは無く、その流入や流出についても確認しています。
そんなこと周知のことなのに・・・と言われるかも知れませんがま、興味の範疇ですので。

加古川刑務所前まで戻ってきました。刑務所前バス停に置いてあるこの石造物、以前から気になっています。これも弾薬庫か何かの門柱かも知れませんね。
これから日岡山公園を抜けて帰宅します。